『わたしたちが光の速さで進めないなら』を読み終えて【一部ネタバレあり・レビュー】

分かり合えない他者の温もりを求めて

周辺情報

  • 作品名:『わたしたちが光の速さで進めないなら』
  • 著者:キム・チョヨプ(敬称略)
  • 訳者:カン・バンファ、ユン・ジヨン
  • 出版社:早川書房(ハヤカワ文庫NV / 単行本)
  • 刊行日:2020年12月3日(文庫版:2024年10月9日)
  • ジャンル:SF短編集(全7編)/ 韓国文学
  • 舞台:近未来の宇宙ステーション、深宇宙、遺伝子改変後の地球・ユートピア など

※一部、短編の根幹に関わる設定・描写に触れています。

わたしたちは宇宙に存在する孤独の総量をどんどん増やしていくだけなんじゃないか

わたしたちがいくら宇宙を開拓して、人類の外縁を押し広げていったとしても、そこにいつもこうして取り残される人々が新たに生まれるのだとしたら……わたしたちは宇宙に存在する孤独の総量をどんどん増やしていくだけなんじゃないか」

――表題作『わたしたちが光の速さで進めないなら』

どれほど科学が発展し、人間が光年単位の彼方まで瞬時に跳べるようになったとしても、心を通わせたい「たった一人」のところへ届かなければ、その進歩に何の意味があるのか。

本書は、輝かしい技術の進歩を謳うスペースオペラではありません。
速度と効率が支配する世界で、届かない願いを抱え、誰かを思い続ける個人の切実な体温を描き出した短編集です。
人の幸福を願って発展したはずの科学によって、結果として周縁へはじき出されてしまった人々。彼らのこぼれ落ちそうな願いに、そっと光を当てていく物語です。

あらすじ

表題作をはじめとする本作『わたしたちが光の速さで進めないなら』は、韓国でベストセラーとなり社会現象を巻き起こした新世代SF短編集です。
宇宙航行、冷凍睡眠、感情の物質化、バイオテクノロジーといった本格ハードSFの精緻な設定を骨格にしながらも、その中心で描かれるのは常に「取り残された個人の孤独」や「他者とつながりたいという切実な願い」。
冷たい宇宙の暗闇に、ぽっと人間の体温を灯すような珠玉の7編が収められています。

  • 『わたしたちが光の速さで進めないなら』
    より高速なワームホール航法が普及したことで旧式の宇宙船路線が廃止され、遠い星系に家族を残したまま老朽化した宇宙ステーションで待ち続ける老科学者(表題作)。
  • 『共生仮説』
    人間が幼少期の記憶を失うのはなぜか。赤ん坊の脳内に寄生し、人類に「愛」や「利他」の概念を教えて去っていく地球外生命体との、切なくも美しい共生を巡る探究。
  • 『館内紛失』
    死者の記憶と生前の精神がデータとして保管される巨大な図書館。母を理解できずにいた娘が、索引を失い「迷子」になってしまった母の意識を探し出す、憎しみと赦しの物語。

SFの骨格に宿る、圧倒的な抒情性

著者のキム・チョヨプ氏は生化学を学んだ研究者出身です。
バイオテクノロジーや深宇宙探査といった科学設定には確かなリアリティと説得力があります。

しかし、決して難解な専門知識を競うような硬いSFではありません。
むしろ、技術や世界観が論理的で逃げ場がないからこそ、技術の進歩がもたらす理不尽さや、社会の冷たい不条理が容赦なく際立ちます。

合理的な世界のなかで、どうしても諦めきれない想いや寂しさ、誰かとつながりたいという願い――。精緻なSFの骨格があるからこそ、そこで零れ落ちる人間ドラマがどこまでも切実に、痛いほど胸に迫ってきます。
三人称の観察、手記、回顧といった多彩な語り口で、読者を静かに物語の核心へと誘う筆力も秀逸です。

理想郷を捨てて聖地に残るのか

本書のなかでも、ひときわ胸を締め付けられた短編が『巡礼者たちはなぜ帰らない』です。

「完全な人間」と「不完全な人間」に分断され、激しい差別が横行した聖地と呼ばれるその場所。そこから逃れ、苦痛も差別も老いすらもない理想郷(村)を作った人々がいました。
しかし、17歳になって聖地へ巡礼へと旅立った若者たちの多くは、なぜか安全な村へは二度と戻りません。

なぜ彼らは、欠陥と差別に満ちたあの不完全な聖地に留まり続けるのか。
その理由は、あまりにも泥臭く、愛おしいものでした。彼らは外の世界で、「傷つけ合ってでも、共に生きたいと思える誰か」に出会ってしまったのです。

何一つ痛みのない理想郷で生きることよりも、どれほど不条理な世界であっても、誰かの手を取り、互いの欠落を埋め合いながら生きることを選ぶ。

身体の変形や障害を抱え、社会から欠陥品と切り捨てられた創始者のオリーヴとデイジーが、互いの存在を唯一の光として寄り添い合ったように。
人は、完全だから愛し合えるのではない。不完全で、傷だらけで、世界の中心からこぼれ落ちてしまったからこそ、誰かの体温を求め、支え合うことができるのだと痛烈に突きつけられます。

効率化という冷たい宇宙のなかで、誰かの手を取ることを諦めない

僕たちが生きる現代社会もまた、すさまじい速度で「最適化」と「効率」を求めて疾走しています。タイパ、コスパ、自動化――無駄を削ぎ落とし、最短距離で成果を出すことばかりが正義とされる時代です。

しかし、そうした合理化のレールが敷かれるたびに、規格に収まらないものや、立ち止まってしまう誰かが必ず周縁へと弾き飛ばされていきます。効率化の波に乗れなかった者を「自己責任」の一言で切り捨てる空気感は、作中で廃線となった航路に取り残された人々の姿と残酷なほど重なります。

だからこそ、本作が描き出す、割り切れない感情や、不完全な人々の姿が痛いほど眩しく見えました。

『巡礼者たちはなぜ帰らない』の若者たちが選んだのは、痛みのないユートピアではなく、傷つき合うことが避けられない不完全な聖地でした。
何一つ傷つかない孤独でひとり平穏に過ごすことよりも、たとえ傷だらけになっても誰かと出会い、不器用に手を伸ばし合うこと。

社会の基準から少しズレてしまったとしても、規格外のままで生きていていい。完全になれない者同士が、互いの欠落を埋め合うように支え合って生きていく――。
効率やスピードに流されそうになる日常のなかで、その泥臭い体温に強く惹かれました。

たとえ分かり合えなくても、光の速さで進めなくても

効率ばかりを重んじる世界にあっても、自分が信じた探求や、誰かとの小さな約束を軽々しく切り捨ててはいけない。 どれほど時間がかかろうと、たとえ光の速さで進むことができなくても、自らの意志で選び取った方向へ一歩ずつ進むことそのものに尊厳があるのだと、深く信じさせてくれる作品たちでした。

技術や時代の波に追いつくことばかりに焦りを覚えている人にこそ、この静謐で温かい宇宙の物語を開いてみてほしいと思います。

あなたにとっての「どんなに時間がかかっても手放したくないもの」を思い浮かべながら、ぜひ頁をめくってみてください。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。