「才能があれば何をしてもいい」時代の終焉
僕には、作品に対する確固たる信条がある。
それは、『推せない推しは、推すべきではない』というものだ。
かつて、表現の世界には「才能」という名の免罪符が存在した。「作品と人格は別だ」という言葉を呪文のように唱えてさえいれば、作家がどんな不道徳や加害を行っていようと、僕らは後ろめたさを感じずに快楽を享受することができたからだ。
しかし、僕は今、その考えを明確に拒絶するに至った。
一時の好悪に留まる話ではない。この時代に自律した感性を保ち続けるために、避けては通れない極めて原理的な選択――その確信に至った背景を、ここに記しておきたい。
人格という「フレームワーク」から逃れる術はない
「作品と人格は別だ」という主張は、創作の本質を見誤っている。
創作とは、作家が観ている世界を一度分解し、自らの手で再構成する行為だ。その「再構築」のプロセスにおいて、何を拾い、何を捨てるかを決める評価基準――いわば「人格という名前のフレームワーク」から、作品は逃れることができない。
どれほど優れた技術で包まれていても、構築の土台となるシステムそのものが歪んでいれば、出来上がる作品の「論理の骨格」が歪まないわけがないのだ。作家というフィルターを通った時点で、作品と人格は構造的に不可分なのである。
可視化される「毒」の正体
現代において、作家の「素顔」は作品の外側――SNS、YouTube、生配信でのふとした一言に露呈する。それは編集というフィルターを通過する前のな作家自身の思想なのだ。
そこに潜む「毒」について、もう少し冷静に見つめてみたい。それは単なる不道徳というより、表現者の土台にある「認識の歪み」の現れだ。
批評という名目で行われる性別や人種への差別、あるいは自らの非を認めない不誠実な振る舞い。自分の言葉が持つ影響力を、ファンを焚き付けて誰かを攻撃させるための武器として扱う傲慢さ。そして、社会の一員としての法を軽んじ、自分だけが他者を一方的に裁く特権を持っているかのような全能感。
これらは、表現そのものの質以前に、その作家が社会と結んでいる「契約」がすでに破綻していることを示している。このようなフレームワークを通して再構築された世界には、どんなに巧妙に隠しても、他者への敬意の欠如という不純物が必ず混入してしまう。
「批評」と「名誉毀損」の明々たる境界
ここで一つ、はっきりさせておきたいことがある。
本を買った読者には、当然ながら「つまらない」と文句を言う権利がある。それは対価を払った消費者の正当な主観的評価であり、守られるべき感想だ。
しかし、『嘘の物語』『文章が下手だ』などと人格や能力そのものを貶める言葉を投げつけるのは批評でも何でもない。それは稚拙な名誉毀損に他ならない。
主観的な「好き嫌い」を語る権利と、相手の人間性を攻撃する暴力。この二つを混同している人間の言葉には、聞く価値などない。そんな稚拙な攻撃を「批評」の名の下に行う表現者は、その時点で表現の場から淘汰されるべき存在なのだ。
自分の『嫌い』を語る権利はあっても、誰かの『好き』を裁く権利は、誰にもない。
加害の片棒を担がず、誠実な『面白い』の味方でありたい
日々の生活を切り詰め、苦労して手にしたなけなしのお金。
そのお金を「最高に面白い作品」のために使いたいと願うのは、至極真っ当な欲求だ。しかし、だからこそ、その尊いリソースが何に使われるのかを一度立ち止まって考えてみてほしい。
僕たちが支払う対価は、その作家が声を張り上げるための「メガホン」の修理費や電池代に使われる。もしその作家が、そのメガホンを使って誰かを傷つけ、差別を撒き散らしているのだとしたら、僕たちの血の滲むような努力の結晶は、皮肉にも加害のメガホンをメンテナンスし、より遠くまで響かせることに加担しているのに等しい。
なけなしのお金だからこそ、誰かを傷つけるための武器を研ぐことに使われてはいけない。毒を撒き散らす回路を自らの意志で塞ぎ、そのリソースを、誠実なフレームワークを持つ表現者へと正しく巡らせること。それこそが、僕たちの努力を裏切らない、より良い作品が生まれる土壌を育む唯一の道なのだ。
壊れたメガホンを直し続けるのか、それとも新しい美しさの種を蒔くのか。
この「責任の等価」という原則に立った選択こそが、表現の未来を取り戻すための、静かで強固な戦いなのだと僕は信じている。
「才能」が免罪符になる時代の終焉
僕たちは今、大きな時代の転換点に立っている。
面白ければ何を言ってもいい。
売れていれば何をしても許される。
才能があるなら人を傷つけてもいい。
そんな時代はもう終わった。
「面白い」という快楽も、「売れている」という数字も、他者の尊厳を踏みにじって良い理由にはならない。物語で人を騙す技術は尊いが、現実で人を裏切り、傷つける人間が描く「楽しさ」には、必ず不純なコストが支払われている。そのコストを、僕はもう見過ごすことはできない。
主権を他者に渡さない
「推せない」と感じたなら、静かに、しかし断固として身を引くこと。
それは自分の感性の純度を守り、社会をこれ以上汚さないための、一人の自律した人間としての矜持であると考える。
誰を愛し、誰の思考を自分の内側に招き入れるか。その決定権を「流行」や「才能」という言葉に委ねてはいけない。僕は、人格というフレームワークまで含めて美しいと思える物語だけを、この手に取っていきたい。

